議論の燻製

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【映画】ファイトクラブ 生の実感への渇望、大量消費社会へのクーデター

【映画】ファイト・クラブを見て

監督:デイビット・フィンチャー

主演:ブラット・ピット、エドワード・ノートン

Fight Club (字幕版)

Fight Club (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 見よう見ようと思いながら―この頃集中力が衰えてきたか、2時間画面を見つめていることが億劫に感じて映画自体を避けていたが―後回しにしていた映画を漸く見た。

 

 最初この映画のテーマは「資本主義の軛からの解放と原始的強さへの回帰」的なものかと思ったが、そのような要素も多分に含みながらも、前面に出ていたのは「生の実感」を求める姿だった。

 エドワード・ノートン演じる主人公の男は、しがないリコール査定業者で働く男で、人生の楽しみと言えば北欧家具で自室を彩ることぐらいだった。この唯一の楽しみも後から振り返れば資本主義の歯車としての行動だったとわかる。「可哀想な男だ」と思ったが同時に、現代人のどれだけの人がこの回転に抗って生きられるだろうかと考えた。別に資本主義を否定するわけでも、自分がこれまで行ってきた消費活動を後悔するわけでもないが、この問いが浮かぶ。

 さらに深めれば、現代社会に生まれ義務教育を受けた一人の人間が、資本主義的生き方を嫌うだろうか、嫌ったとしてもその心のままに生きられるだろうか。恐らくは否、その生き方を思い描いたとして、彼はまもなく膝を折ることになる。あるいはそんな生活を思い描き、しかし実現にはあらゆる障壁があることに気が付き、今度は反対に正反対の解決法を探すかもしれない。すなわち資本主義の中で育った平均人に共通の願望がそのまま彼の願望となる。財布の中身を増やし、所有物で身の回りを固めることに生の実感を見出すようになる。

 ファイト・クラブは生の不存在=「死」とそれに繋がる「痛み」を思い出させるという意味で、生の実感を呼び起こすための手段としては先述の消費活動よりも圧倒的に優れていた。近所にあるなら是非入会したいとも思った。

 

 それにしても映画冒頭からラストまで多用されるサブリミナル効果には注意を引かれた。特にラストシーンはよかった。何の画像だったかは伏せておくが、専ら購買意欲を駆り立てるために利用されるサブリミナル効果を、それが主とするところの資本主義を揶揄するために使うというのは実にクリティカル。

 

まとめ:ブラピはかっこいい