議論の燻製

議論を醸したり、醸さなかったり

ブログを書くんじゃ

〇なぜブログを書くのか

 「最近ブログを書いておるんじゃ」と人に話すと、結構「なんで始めたん?」と聞かれる。普段は適当に「なんとなく」とか「おもろいやん」とか答えているが、自分でもブログを書く意味について考えてみた。これを読んでブログを始める人が増え、周囲の人々と互いの理解を深める手段となれば相当おもろい。

言語化するため

 ブログを書こうが書くまいが、人間の頭の中では様々な考えが形のないものとして存在してはいる。これは整理されたものじゃない。思考が整理されたものでないと、不意に意見を求められたときや自発的に表明したいと思った時に、最適なアウトプットを行うことができない。

 ブログを書くためには、形をもたない考えを読める文章に整理し言語化することを要する。ブログ執筆によって一度この作業をしておくことにより、実際の対話中で自身の考えを表明するために考えを整理するのが楽になる。「ブログを書く」ということは、いわば対話中でのアウトプットの準備段階としてのアウトプットであり、同時に整理された思考のインプットでもある。

Twitterやメモ帳ではだめなのか

 以上が自分がブログを選んだ理由の肝であるが、言語化するということのみが要件なら、それに適うものは他にいくらでもある。この点につき、ブログが優れている点は2つある。

①公衆の縦覧

 これは閲覧数を稼ぎたいとか収益化を目指すという意味ではなく、文字通りに捉えてほしい。すなわち「不特定多数にみられる可能性がある」ということである。そしてまた可能性があれば十分で、実際に多数にみられる必要もない(その欲求がなければ言葉選びで追従しなくて済む)。

 それはこの可能性がはらむプレッシャーの存在は、僕がブログを書くにあたり、事実と異なることを表明したり、あまりにも浅い考察の先にある意見の表明に終止してしまうことを恐れるには十分であるからだ。これは全く個人の感じ方次第であるが、ブログ自体の匿名性は当該プレッシャーを与えることを妨げない。

 また前述したとおり、第一の目的は思考の整理と言語化であり、現実生活に即した準備段階であることも相まって自分の思考と言論表明を統制する。

②文字数制限がない

 今ではTwitterでも自由に呟けるが、あれに関しては字数制限が甚だ厳しく(何文字が忘れたが140そこらだった)、自分の考えを短くまとめる能力がない僕には使いこなす自信が毫もない。

 またしばしばTwitter上では激しい論争が巻き起こっているが、これも当該性質に起因するものであり、数少ない文字数制限の中では自分の考えを欠落なく表明することも、それが確かな根拠に基づいていると示すことも、また想定される反論に対しての反駁をすることもできないため、特に考えの異なる相手を納得されるというのは至難の業である。(相手の知識量などもわからない状態で議論を始めるということ自体破綻していると思うこともたびたびある。そもそもTwitter上で「炎上」だとか「トレンド」の俎上に上がっているもののほとんどは議論の価値もないほどの些末な問題も多く、実際にはそれほど盛り上がりを見せていないにも関わらず、どこかの誰かに「炎上」と言及されるから認知されるという程度にすぎないものも溢れていると感じるが話が逸れるためやめておく。「そういう意味ではTwitterの良さには字数制限があるから議論が横道に逸れにくいということがあるかも」と過ったが思い返せば全くそんなこともなかった。)

 ともあれ以上のような点で、僕にとってはブログはいまのところ最適解だ。

〇横道に逸れるまとめ

 ブログは普段思いついたことや意見を書くにはまさしく解放された自由帳です。先にも触れたが、匿名など抜きにして(過度な過激思想家であれば憚られるだろうが)みんながブログに自分の意見を書いて、違った意見に触れて互いに理解を深めることができれば最高だと思う。

 「意見を述べる」という目的で使えば、何かしらに異議や不満を述べたり、逆に肯定するということに繋がるから、必然的に特定の立場をとるということになる。そうすれば100%考えが合致する人はいないだろう。だがそれでいい。この国においては意見を述べるだけで周囲から牽制されがちだが、そんな「おしとやかこそ至高」なる文化はお笑いである。普段接する人がどんな考え方を持つ人なのか知ることは、余りにも逆行しているとか受容できないような場合を除けばプラスの効果を持つはずであって、考えが少し違うとか、ともすれば立場をとるというだけでマイナスの印象を抱き去っていくような手合いに対しては「追わず」を徹底すればいいだけのことである。

 つまりは「ブログおすすめだよ!」ということが言いたかった。

 

 

 

【映画】ファイトクラブ 生の実感への渇望、大量消費社会へのクーデター

【映画】ファイト・クラブを見て

監督:デイビット・フィンチャー

主演:ブラット・ピット、エドワード・ノートン

Fight Club (字幕版)

Fight Club (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 見よう見ようと思いながら―この頃集中力が衰えてきたか、2時間画面を見つめていることが億劫に感じて映画自体を避けていたが―後回しにしていた映画を漸く見た。

 

 最初この映画のテーマは「資本主義の軛からの解放と原始的強さへの回帰」的なものかと思ったが、そのような要素も多分に含みながらも、前面に出ていたのは「生の実感」を求める姿だった。

 エドワード・ノートン演じる主人公の男は、しがないリコール査定業者で働く男で、人生の楽しみと言えば北欧家具で自室を彩ることぐらいだった。この唯一の楽しみも後から振り返れば資本主義の歯車としての行動だったとわかる。「可哀想な男だ」と思ったが同時に、現代人のどれだけの人がこの回転に抗って生きられるだろうかと考えた。別に資本主義を否定するわけでも、自分がこれまで行ってきた消費活動を後悔するわけでもないが、この問いが浮かぶ。

 さらに深めれば、現代社会に生まれ義務教育を受けた一人の人間が、資本主義的生き方を嫌うだろうか、嫌ったとしてもその心のままに生きられるだろうか。恐らくは否、その生き方を思い描いたとして、彼はまもなく膝を折ることになる。あるいはそんな生活を思い描き、しかし実現にはあらゆる障壁があることに気が付き、今度は反対に正反対の解決法を探すかもしれない。すなわち資本主義の中で育った平均人に共通の願望がそのまま彼の願望となる。財布の中身を増やし、所有物で身の回りを固めることに生の実感を見出すようになる。

 ファイト・クラブは生の不存在=「死」とそれに繋がる「痛み」を思い出させるという意味で、生の実感を呼び起こすための手段としては先述の消費活動よりも圧倒的に優れていた。近所にあるなら是非入会したいとも思った。

 

 それにしても映画冒頭からラストまで多用されるサブリミナル効果には注意を引かれた。特にラストシーンはよかった。何の画像だったかは伏せておくが、専ら購買意欲を駆り立てるために利用されるサブリミナル効果を、それが主とするところの資本主義を揶揄するために使うというのは実にクリティカル。

 

まとめ:ブラピはかっこいい

 

 

報道各社「不倫!?世の中に伝えなきゃ!」

グッバイ・テレビ

 この頃のマスメディアの報道については不信感が募る一方でジャーナリズムの凋落を感じざるを得ない。実家暮らしの頃は家族の誰かがテレビをつけていれば自ずと目に入ることから、平気でニュースを受け取ってそれに対する感想を抱くか抱かないかしていたが、大学に進学し一人暮らしを始めてから、ふとした時に己の日常の中の「テレビ番組・ニュース番組を見る」時間が、高校時代のそれの0倍を割っていることに気が付いた。この発見を手掛かりにしてメディアには信を置く価値がないことに気が付いたのか、あるいはテレビをよく見ていた時からも自覚のない部分で感じていたのかは判然としない。ともかくとして、あのメディアたちが、その本懐とすべき精神を捨て去ってまで操作の対象としようとしている人々の中から逃れることになった。我が家のテレビが、玉石カオスであるが故に視聴に当たり集中と警戒を要するノンフィクション(捻じ曲げられたという意味ではフィクションに近い)報道のための媒体から、純粋な情熱と感動をもたらすフィクション(映画・ドラマ等)の映写機に羽化したのも同時期である。

 

愚かなメディア

 今のメディア(ここでは特にテレビ報道についてだが)は、左手で長年に渡って積み上げてきた信頼を壊し、代わりに右手で不信を積み上げる作業を勤勉にも同時に行っている。「信頼を積み上げた」とはいえ、過去のテレビが今と比較して素晴らしいものだったというわけではない。ただ、以前はテレビに出て公に発信することができる人の数は極めて限定的で、その権威性は視聴者が「発信者の発言は正しい情報である」と信ずるには十分なものだった。

 しかし世の中は変わり、人々は誰であれSNSや配信サービスを使えば、自分の抱くところの思想や意見を表明することができるようになる。すると、メディアという後ろ盾を持たない人の中から、メディアのスピーカーの発言よりも優に洗練された意見や、また、メディアの報じない事実/メディアの切り取った事実の全体像の表明がなされるようになった。「テレビに出て発言すること」は、従来行っていた信用供与の働きをなさなくなったのである。

 昔は大衆が情報を得られなかった、しかし状況は変わり噓をつけばばれるようになった。であるならば、報道の仕方を改め、曲がりなりにも築いてきた信頼をせめてこれからは正当に維持するというのが賢明というものなのだが、一度に握った覇権は万古不易というのが偏向報道機関の総意らしい。あるいはメディアを妄信する善良なる市民はまだ利用の余地があるということか。

 

テツandトモ

 当然「なんでだろう?」という疑問が浮かんだ。報道機関にも是とする信条があり、それに従っているとか、便宜を図っているとかいうのも、まっこと主たる要因だろうが、ここでは個人的に実生活と実体験に重ねて腑に落ちかけている2つの理由を書きたい。

①みんなに見てもらうため

 つまりは、複雑な話よりも単純な話の方が多数が理解しやすく、視聴者が増える。この理由がメディアをして複雑な現実を「二項対立」に仕立て上げる。例えば犯罪、汚職、不倫があれば、当人が過去にどんな業績や善行を成していようと、ネガティブな情報で画面を埋め尽くす。逆もまた然り。フィクションであれば、どこを探しても称賛されるべきところのない悪人や、それに立ち向かう完全無欠の人徳者もあり得るが、現実は複雑怪奇である。「陳腐な善/悪」は見栄えが悪いがために、装飾を施される。

 あるいはまた、どうでもいい不倫報道を時系列に沿って長々と説明する愚行も同じ目的から説明できる。つまり、日本人は国際比較において「政治・経済ニュース」よりも「生活・娯楽ニュース」を好む人の割合が群を抜いている。出社前の視聴者が多い時間にマクロで新たな問題提起を行うニュースを流さず星座占いやお役立ちグッズを紹介し、ゴールデンタイムの番組で答えられなければ恥とも思える常識問題を「クイズ」と銘打ち、正答した俳優が歓声を浴びているのはこのためである。この点はメディアのみが負う責任ではないが、「権力の監視」を課せられたマスメディアが独立不羈どころか市民に迎合し、権力に追従を用意し、ジャーナリズムはいずこへというお話である。

②働く人の心情

 先日、ある報道機関の記者方と直接話をする機会があった。あるタイミングで彼が「転職の可能性」について触れ、それを肯定しながら曰く「僕らの仕事は事実を伝えることなんですよね。世の中を動かすことはなくて、それが物足りない」。思うところは様々ある。「報道は事実を伝えること」だということはわかりきっていたことではないのか?何より危惧するのは、「事実を伝えることが物足りない」と感じる関係者が他でもない報道機関に数多跋扈しており、角度をつけた報道によって積極的に世の中を、しかも任意の方向に動かそうとしてはいないかということである。公に影響力を持てるからとは言い条、ジャーナリズムは実質的に不完全でも事実のみを伝える精神をもつべきで、事実を受けた後の動きは世の中に任せられなければならないはずだ。また逆に、現状の報道業界が本当に事実を伝えているのか考えてほしい。「フィルター付の監視」機能しか果たさず、恥も外聞も知らず操作後の情報を鼓吹している今を見れば、事実のみを伝えるということがいかに誇りある仕事か口を極めても足りないだろう。