議論の燻製

議論を醸したり、醸さなかったり

報道各社「不倫!?世の中に伝えなきゃ!」

グッバイ・テレビ

 この頃のマスメディアの報道については不信感が募る一方でジャーナリズムの凋落を感じざるを得ない。実家暮らしの頃は家族の誰かがテレビをつけていれば自ずと目に入ることから、平気でニュースを受け取ってそれに対する感想を抱くか抱かないかしていたが、大学に進学し一人暮らしを始めてから、ふとした時に己の日常の中の「テレビ番組・ニュース番組を見る」時間が、高校時代のそれの0倍を割っていることに気が付いた。この発見を手掛かりにしてメディアには信を置く価値がないことに気が付いたのか、あるいはテレビをよく見ていた時からも自覚のない部分で感じていたのかは判然としない。ともかくとして、あのメディアたちが、その本懐とすべき精神を捨て去ってまで操作の対象としようとしている人々の中から逃れることになった。我が家のテレビが、玉石カオスであるが故に視聴に当たり集中と警戒を要するノンフィクション(捻じ曲げられたという意味ではフィクションに近い)報道のための媒体から、純粋な情熱と感動をもたらすフィクション(映画・ドラマ等)の映写機に羽化したのも同時期である。

 

愚かなメディア

 今のメディア(ここでは特にテレビ報道についてだが)は、左手で長年に渡って積み上げてきた信頼を壊し、代わりに右手で不信を積み上げる作業を勤勉にも同時に行っている。「信頼を積み上げた」とはいえ、過去のテレビが今と比較して素晴らしいものだったというわけではない。ただ、以前はテレビに出て公に発信することができる人の数は極めて限定的で、その権威性は視聴者が「発信者の発言は正しい情報である」と信ずるには十分なものだった。

 しかし世の中は変わり、人々は誰であれSNSや配信サービスを使えば、自分の抱くところの思想や意見を表明することができるようになる。すると、メディアという後ろ盾を持たない人の中から、メディアのスピーカーの発言よりも優に洗練された意見や、また、メディアの報じない事実/メディアの切り取った事実の全体像の表明がなされるようになった。「テレビに出て発言すること」は、従来行っていた信用供与の働きをなさなくなったのである。

 昔は大衆が情報を得られなかった、しかし状況は変わり噓をつけばばれるようになった。であるならば、報道の仕方を改め、曲がりなりにも築いてきた信頼をせめてこれからは正当に維持するというのが賢明というものなのだが、一度に握った覇権は万古不易というのが偏向報道機関の総意らしい。あるいはメディアを妄信する善良なる市民はまだ利用の余地があるということか。

 

テツandトモ

 当然「なんでだろう?」という疑問が浮かんだ。報道機関にも是とする信条があり、それに従っているとか、便宜を図っているとかいうのも、まっこと主たる要因だろうが、ここでは個人的に実生活と実体験に重ねて腑に落ちかけている2つの理由を書きたい。

①みんなに見てもらうため

 つまりは、複雑な話よりも単純な話の方が多数が理解しやすく、視聴者が増える。この理由がメディアをして複雑な現実を「二項対立」に仕立て上げる。例えば犯罪、汚職、不倫があれば、当人が過去にどんな業績や善行を成していようと、ネガティブな情報で画面を埋め尽くす。逆もまた然り。フィクションであれば、どこを探しても称賛されるべきところのない悪人や、それに立ち向かう完全無欠の人徳者もあり得るが、現実は複雑怪奇である。「陳腐な善/悪」は見栄えが悪いがために、装飾を施される。

 あるいはまた、どうでもいい不倫報道を時系列に沿って長々と説明する愚行も同じ目的から説明できる。つまり、日本人は国際比較において「政治・経済ニュース」よりも「生活・娯楽ニュース」を好む人の割合が群を抜いている。出社前の視聴者が多い時間にマクロで新たな問題提起を行うニュースを流さず星座占いやお役立ちグッズを紹介し、ゴールデンタイムの番組で答えられなければ恥とも思える常識問題を「クイズ」と銘打ち、正答した俳優が歓声を浴びているのはこのためである。この点はメディアのみが負う責任ではないが、「権力の監視」を課せられたマスメディアが独立不羈どころか市民に迎合し、権力に追従を用意し、ジャーナリズムはいずこへというお話である。

②働く人の心情

 先日、ある報道機関の記者方と直接話をする機会があった。あるタイミングで彼が「転職の可能性」について触れ、それを肯定しながら曰く「僕らの仕事は事実を伝えることなんですよね。世の中を動かすことはなくて、それが物足りない」。思うところは様々ある。「報道は事実を伝えること」だということはわかりきっていたことではないのか?何より危惧するのは、「事実を伝えることが物足りない」と感じる関係者が他でもない報道機関に数多跋扈しており、角度をつけた報道によって積極的に世の中を、しかも任意の方向に動かそうとしてはいないかということである。公に影響力を持てるからとは言い条、ジャーナリズムは実質的に不完全でも事実のみを伝える精神をもつべきで、事実を受けた後の動きは世の中に任せられなければならないはずだ。また逆に、現状の報道業界が本当に事実を伝えているのか考えてほしい。「フィルター付の監視」機能しか果たさず、恥も外聞も知らず操作後の情報を鼓吹している今を見れば、事実のみを伝えるということがいかに誇りある仕事か口を極めても足りないだろう。